中高生の時代
多分 小学時代
小学の高学年になると毎日の放課後は徒党を組んでソフトボール.校庭で出来ない
時には近くのグラウンドに行く.これも妙なことに近くには海上保安庁があり,
そのグランド(というよりは野原)も解放されていた.そしてその周りには無電局の
鉄塔.建物の中には面白そうな機会の群れ(=無線機).さらに,神様のラジコン
は当然無線で飛行機を操作する.テレビのコンバットでも
 ”チェックメート・キングトゥ こちらホワイト・ロック(本当はホワイトルーク:
チェスのルーク)”は耳にこびりついていたし,今から考えると使っていたのは体積
は大きいが,少なくともハンディ無線機だった.ある春休み,自衛隊の一般公開が
花祭りに合わせて行われた.自衛隊員が無線機でどこかと連絡を取っていた.一般の
人にも無線機は持たせて貰えていた.祖母が順番を取ってくれてその無線機に触らせ
てもらい,上機嫌ではしゃいでいた.今でも覚えているのだから,かなり強い印象
だったのだろう.こんなわけで,周囲に無線に関する施設や状況があったことも興味
が湧いて来たことと関係があるのかもしれない.

神様と市民バンド
スキーの話題とも重なるが,毎年冬になると神様がスキーに連れて行ってくれた.
中には大会に出るような方とも一緒になったことがあり,タイムの測定が必要なこ
ともあった.時間測定は無線での合図でやっていた.そのような時にも使わせて貰
いたいと思ったのを覚えている.こんな所にも神様は絡んでいる.無線(機械系)が
好きだというの知ってくれてる人もいて,世の中に市民バンドなる許可申請だけで
電波を出せる法律があるのを教えて貰えた.そのことをことあるごとに話題にして
いると,祖父がどこからとなくトランシーバーを買ってきてくれた.その時代にし
たら,立派な機械だった.申請書も同封されており,わけもわからず許可申請を
出した.コールサインと似たような登録Noが送られてきた.どこまで届くかを試す
のに,自転車で移動し,距離を確かめた.出力は0.3〜0.5Wだったと思う.それでも
2階の窓からアンテナを出すと2K程は交信でき,満足していた.

講習会がある  
中学2年生の時だったか,友人がアマチュア無線の講習会がある事を教えてくれた.
講習料がいるので親に相談し,承諾を得た.内容は何のことだか解らない事が
多かった.オームの法則程度ならよいが,ホイーストストーン. ブリッジなんて
まる覚えだったし(高校の物理でようやく出てきた),他にも同調や増幅の原理が出
てきていたように思う.コンデンサの原理も高周波のインピーダンスの概念も
はて,何のことだか・・・. それでも,何とか試験には合格し(記述),初めて
の国家資格になった(免許証は運輸大臣名;もちろん電話級でこの時の最大出力は
10Wまでであった).

FDAM-3
その頃の50MHz(AM,FM)は未成年の入門用で144MHz(FM)が大人の入門バンド
のようだった.親も試験に受かるとは思っていなかったらしく,比較的すんなりその
当時の初心者向きとされていた無線機を買ってくれた.それがICOM製FDAM3だった
電波形式は A3 F3,出力1Wで終段は真空管,VFOが2つあり受信周波数と送信
周波数を同調しなければならなかった.
移動時の電源は単一乾電池9個が必要で,運用するのにはかなり重かった.それで
も,送られてきた時には舞い上がり,取説をくまなく読んで操作方法を頭に入れた.
後は電波を出すのみ.速く電波を出したくて出したくて,うずうずしていた.とい
うのも当時の開局申請には送受信のブロックダイヤグラムを書く必要があって,
開局申請書は(田舎では)無線機を購入してからしか出来なかったような記憶がある.
それで,無線機があっても電波は出せなかったのだ.幸い,当地のアマチュア無線
クラブへの入会の勧めもあり,早速入会した.入会するとクラブのコールサインで
電波を出しても良いということであって,法律上堂々と電波を出すことができる.
50MHzでかつ山間地,電波の到達距離は市販のトランシーバーに毛の生えたような
範囲でしかなかったが,自分で電波を出せた感激はひとしおだった.ある時,これ
はしてはいけない事ではあったが,相手も同じクラブのコールサインで交信をしていた.
後でOMさんに怒られた・・・(;^_^A アセアセ…

アマチュア無線クラブ発足とアンテナ
講習会では,今まで喋らなかった同級生の顔もあり,それから喋るようにもなった,
その時の技術の先生も自分の車に無線を積んでいて,クラブにしようかと話が進む.
予算はほとんどなく,機械は買わないという条件で生徒会の承認を受けた.
その時は誰もHFの機械は持っておらず,文化祭は50MHzの公開実験のみとなった.
それ以外,クラブとしての活動はこれといってなかったが,夜な夜なこう出来たら
面白いのになという話題で交信を楽しんでいた.交信は屋外に出て内蔵ホイップアン
テナだけで行っていた.これでは通信距離も伸びず,冬のラグチューは厳しかった.
OMさんや友人との会話の中でGP案が出て,なんとか5/8波長のGPアンテナを買って
もらった.購入した初めてのアンテナで大学へ行くまで置いてあった.その時に思っ
たことは,何の変哲もない単なるアルミ線が長さを調節し,抵抗を調整するだけで
何故受信感度が上がり,送信距離も伸びるのか? であり不思議なことであった.
このことも後に尾を引くことになる.

HFバンドへの夢 コリンズKWM2との出会い
いつの間にか高校生.田舎なので受験戦争のようなものはなく,すんなり入学.高校
には形だけながらアマチュア無線クラブがあり(部室は無いが,機械はあった)入部
した.交友関係も少しだけ広くなり,家にアンテナとHFの機械を持っている無線局
に遊びに行くようになっていった.この時代のアマチュア無線機といえば八重洲無線
かトリオ,あと井上電気(現ICOM,VHFのみ)が少数,と144MHzはクラニシ電気のMARKAR
LUXURYだった.その頃の街のアマチュア無線クラブの会長さんは当然ながら一級免許
を持っておられ,お宅にはアンテナタワーが建っていた.何がきっかけだったか忘れ
たが,一度お宅にお邪魔することがあった.その頃は無線をやっているというだけで
和気あいあいとなれ,突然にお宅に伺った時でも”まぁ 入れ”という雰囲気だった.
で,そこで見たのはその頃の最高機種であるコリンズ社のKWM2という無線機.今まで
聞いたことのなかった地域の局が鮮明に入り,何なく交信できる.感動と衝撃が走った.
いつかはこんな機械を使いたいと思った. HFもやりたいなぁ・・・

初めてHFへ
いろいろな経過があって,今までためてきたお年玉を全部使うという条件で,HFの無
線機を買ってもらえることになった.ただしアンテナはなし.来た時の感激はいうま
もなく,早く電波を出したい.しかし,アンテナはない.こずかいで買える範囲でし
なければならず,知恵を絞って考えた.必要なものは同軸ケーブルと鉄の洗濯竿2本
径1mmの銅線20m.と碍子・・・ここまでは良かった.しかし銅線と同軸ケーブルを
繋ぐのにはハンダがいる.それを使うにはコテもいる.ハンダゴテの分が計算になか
った(笑).これだけは泣きついて買って貰い.次に周りの人に波長の計算式を教え
て貰った.銅線を波長の長さに切り,同軸ケーブルの外皮と芯線をわけ,初めてハンダ
ゴテを使い接続,そしてようやく7MHZ用のアンテナ(約20m)が完成.ただし,指向
性は南北に向いており,日本の局との交信には条件は良くないが,これ以上望むべく
もなく,とりあえず電波を出した.それでも微妙な長さが良かったのか,関東方面を
中心にいろんな局と交信が出来,HFでの交信を楽しんでいた.

閑話休題
その頃のHFのアマチュアバンドは,1.8,3.5,7,14,21と28MHzで,HF無線機はこれ
らの波長の電波が出せた.1.8は電信だけだし14MHzは到達距離が長く,2級免許以上が
ないと電波は出せなかった.したがって,初級免許で到達距離が一番長いのは21MHz
であった.
また,父も船を持っていた関係から無線免許を持つことになり,定番のMARKAR LUXURY
を購入していた.

電波とは面白いもので,アンテナは3倍波長の周波数にも同調できる.このことを先輩
から聞いていたので7MHzのアンテナで21MHzの電波も出してみることにした.そして
忘れもしない出来事が起こった.カリフォルニア沖を航行中の日本の貨物船の局と交信
できたのだ.この時の感激も忘れることが出来ない.理屈では不思議でもないことだが,
時間差を感じずにこの距離で通信できることが当時の自分にとっては,やはり面白かった.

高校での文化祭
高校でのアマチュア無線クラブはやはり,部室もアンテナも無かたっが無線機とクラブ
コールサインはあった.2年の時の文化祭でみんなの無線機を持ち寄り,公開交信を
行った.アンテナを張るために屋上に上り,同軸ケーブルを引いた.もちろんアンテナは
自作でフルサイズの3.5MHz用ダイポールも張ったような気がする.機械があるという
名目で,初めて宿(テント)以外に宿泊した.先生も渋々了解してくれた.もう交信記録
は残っていないが後輩はDxを成功させた.

3.5MHzと高校卒業
そんな生活が続いてしばらく経つと,他のバンドへの興味も湧いてくる,バンドごとに
特徴もあるらしく,それも体験したかった.思いは今の免許で出来る波長の最も長い
3.5MHz.その電波を効率よく受信するためには,最低でも長さ20m(1/4波長)のアンテナ
がいる.その頃はアンテナチューナー等はなく,理屈上は波長に同調できるように設計
してあるアンテナが必要だった.20mの銅線をもう一つ張るか,他の手段にするか,か
なりの期間考えていた.短縮コイルのわけも解らず,カタログを読みあさり,その結果
場所を取らずに他のバンドにも出られるバーチカルアンテナを購入した.2本買って横に
すればダイポールアンテナになるのになーと思いながら時々電波をだしていた.この頃
からアンテナという装置に自分の意識以外のところで興味が湧いて来たような気がする.
そして高校を卒業,大学入試の発表の日も7MHZで交信をしていた(笑).
大学も決まったが,アンテナなど建てられるわけではなく,FDAM-3を持っていった.
しかし,この地で第2の無線ライフが始まろうとは・・・

120224 追加訂正
121119 追加訂正
180217 微修正とHTML5化のつもり
230618 微修正