脳 幹 刺 激
初 電 波
大学に入るとすべての環境が変わるわけで,自分のリズムを作るまでに時間がかかる.
といってもそのうちにヨットクラブの仲間とも喋るようになるし,何となく喋る仲間
も出てきて2〜3ヶ月もするとそれなりに落ち着いた生活となっっていった.大学の
授業では面白い試みがあり,体育の授業の一環として海か,夏山か,スキーのどれかに
参加することが必須となっていた.他の項でも書いたように,すでに海,スキーは経験
していたので,ほとんど経験のない山の合宿に参加することにした.その時にはあの
重い無線機(FDAM3)を担いであがったのだ.頂上で電波を出したが,受信は出来る
もののこちらの電波が届かなかった・・・
それ以降は無線とはしばらく縁が切れることになる.
理由の一つは,仮住まいで,アンテナがどうにもならなかったことだった.

タイムスリップ
大学を卒業し,広島2年半,名古屋で2年半を過ごした後,不思議なことも重なって
卒業した大学に戻ってきた.この間のエピソードもかなり面白く,職業とも関係が深い
ので別項としよう.少なくとも家を離れて11年が経っており,この時には結婚もして
いた.仕事に慣れるのにも時間がかかり,無線の無の字もなかった時間が過ぎて
いった.そのうちに,ここでずっと仕事をしてもいいなと思い始め,家を新築すること
となった.そして長男が生まれ,長女が出来た.その後いろんなことがあり,部署を
変わることになった.この期間もやはり無線の無の字もない期間だった.さらに6年が
過ぎていた.

ビビッときた
実家まで車で4時間弱ということもあって,時々帰省していた.何を思ったのか,もう
改装もしてあった元自分の部屋に入り高校時代に使っていたものを眺めていた.そして
片隅に置いてあった無線機を見つけてしまった.かなりのインパクトで脳幹が刺激され
てしまったらしく,すぐに持って帰った.この時はもう40歳前になっていたが,一度
刺激されると止まらない.ここから第2の無線ライフが始まった.早速,無線機をオーバ
ーホールに出し,何とか使える用にした.その時持って帰ったのは,トリオ599シリーズ,
FDAM-3それとMakar LUXURYだった・・・終身である免許状を探し出し開局申請,
待つこと2ヶ月,コールサインが届き,ようやく電波が出せる状態が整った.電波を出し
たのは1995年8月21日だった.

何とかしたい
7MHzバンドで電波を出すために簡単な方法は最低でも10mの銅線を張る必要がある.
家で作ったのと同じように洗濯竿を買ってきて,鯉のぼりの支柱を利用してコの字型の
ダイポールアンテナを作った.今度の指向性は実家よりも良く,ほぼ東西に向いていた.
何度か交信をしたが,相手局から言われるのは受信周波数と送信周波数がかなりずれてる
こと.エレクトロニクスも当然ながら進歩していて,以前の技術で作くられた無線機では
まともな交信はすでに出来なくなっていたのだった.無線機のカタログを見ると,どの機
種にもデジタル技術が使われており,周波数のずれもほとんど無いような時代になってい
たのだった.

120224 訂正
180217 微修正
230618 微修正